大企業が栄えると我々も豊かになる?

月曜日, 8月 29th, 2011

この円高で大企業の海外シフトが加速され、国内産業の空洞化が懸念されて、それに伴う就職難や景気の落ち込み等、我が国の先行きは暗い、という予想がここにきて急速に高まっています。

しかしですねー、我が国のGDPは最近中国に抜かれたものの、世界第3位ですよ。

アメリカも中国も世界の大国です。それに比して日本は極東の小さな島国です。

そんなところが、ついこの間まではGDP世界第2位だったんです。

その割にはすごい豊かだ、という実感はあまりありませんでしたねー。

確かに物は無駄なほど溢れています。が、物というのは不思議なもので、これで満足するという限度がありませんね。

次々に新しい物が出ると、またそれが買いたくなって際限がないのです。

したがって、人間というのは物によっては余り満たされることが無いのではないでしょうか。

私が子供の頃は確かに今ほど物は豊かではなかったですが、親父はたいてい6時頃には帰ってきて、一家揃っての夕飯というのは当たり前だったですね。

いつの頃からか夕食から親父の顔が消えました。

私の子供の頃は町内会の行事も盛んでした。

夏の盆踊り、時々の映画会、春か秋の運動会。

そんな町内会も、今では皆が忙しすぎて殆ど衰退しています。

商店街もさびれてますしね。

昔は子供を地域で育てるという雰囲気がありましたよね。

あの頃は日本のGDPはどの程度だったんでしょうか。

つまり私が言いたいのは、大企業が栄えるから我々の生活も豊かになる、大企業が無くなるなると我々の生活は貧しくなる、というのは本当だろうか、ということです。

我々が子供の頃、昭和30年代、の生活水準に戻るなんてことはありえないんですから、もっと地に足が着いた生活を始めるにはちょうど良い機会なのではないでしょうか。

もっともそのためには地場産業や中小企業が自立するための政府の強力な施策が必要になるのでしょうが。

節電

木曜日, 8月 25th, 2011

地下鉄に乗ると車内の蛍光灯が所々間引いてあって暗くなっています。

節電の意思表示(?)でしょうが、これが困りますね。

たまたま間引いてある蛍光灯の下に座ると、暗くて本や新聞が読みづらいのです。

節電の意思表示であるとしても、ちょっと場所柄をわきまえてもらいたい、と思います。

電車の中というのは、私は最近でこそiPhoneに吹き込んだCNNを聞いてますが、若い頃から長い間貴重な読書の場所でした。

日本人は電車の中で本や新聞を読む人が多いですね。

バンコクのBTSでは本を読んでいる人は殆ど見かけません。

電車の中くらいリラックスして居眠りや何も考えない時間であっても良いのでは、という考え方もあるでしょうが、電車に乗っている時間も無駄にしない、是非はともかく、いかにも勤勉な日本人らしい、と私は思います。

車内の蛍光灯を間引くということは、この日本人の美徳をおおいに阻害しているわけです。

そういえば、地下鉄だけではなく、先日乗った名鉄ではもっと大掛かりに間引きがなされていて、もう殆ど照明はなし、という感じでした。

今、確かに節電は必要でしょうが、これは無駄な電気は使わない、ということであるはずです。

車内の照明。これは決して無駄な電気ではないはずです。

夜は見えなくて当然の建物を、いつの頃からか夜も煌々と照らすライトアップが流行していますが、これこそ無駄の象徴では。

華美なショーウインドウの照明もそうですね。

あるいはこれを機に長時間労働を改めて、原則夜勤を廃止にすれば、もっと節電になると思いますが、いかがでしょう。

灯台下暗し

月曜日, 8月 22nd, 2011

「灯台下暗し」という諺がありますが、余りにも近くにあるためにその有り難さが解らない、ということですね。

私の実家は戦前から八事山興正寺という結構立派なお寺の近くにありました。

我々にとってはその境内は単なる遊び場で、鐘突き堂では勝手に鐘を鳴らしたり、参道に並ぶ仏塔は鬼ごっこの隠れ場でした。

五重塔は愛知県下唯一のものだったらしいですが、お寺ならどこにでもあるもんだと思ってましたし、大仏殿を見ても、奈良の大仏なんかに較べるとチンケなもんだな、とバカにしてました。

ところが長じて、興正寺の話をちらほら聞くようになると、尾張徳川家にとっては上野寛永寺のような鬼門を守る寺で、代々の藩主に篤く信仰されていた由緒あるお寺だったらしいです。

そういえば境内も二山くらいにわたる広大なものだったですねー。

もう一つ灯台下暗し、といえば、私の実家の近くに大きな門構えの家がありました。

別に普段はご町内としての付き合いはありませんでしたが、私の子供の頃は町内の神社のお祭りでは子供達がお獅子を出しました。 大抵はどの家でもお獅子が訪れると「ご苦労さん」と言って、いくらかお金を包んでくれました。そのお金は後で上級生から下級生へ分配されます。

上級生の特権ですから6年生は沢山持っていき、1年生にはお涙金という感じでしたが、それでも臨時の小遣いが入って嬉しかったです。

ところが、件の門構えの家ではお獅子を入れても家の人から「子供の教育に悪いから、うちではお金を出さないのよ」と言われて、一銭ももらえませんでした。我々は「けちばばあ」なんて悪態をついてました。

大学生になった頃にその家の住人が勝沼精蔵(漢字は違っているかも)という高名な内科医(確か)で、名大の総長だったという話を聞いて、驚きました。

あの「けちばばあ」の御主人はそんな偉い人だったのか、そんな人が近所に住んでいたんだ、なんて。

もう一度あなたの周りを見回してみましょう。毎日気にも留めなかったものが、結構有名な所、有名な人だったりして。

人間、大脳が異常に発達?

水曜日, 8月 17th, 2011

先日のニュースで子供の面倒を見ず餓死させたとして若い夫婦が逮捕されました。

こういうニュースがあると「犬猫にも劣る仕業」という枕言葉が必ず付けられます。

が、私に言わせると「人間だからこそ」という感じですね。

「犬猫」の場合はどんな情況になってもその本能が損なわれることは無い。育児放棄なぞはあり得ないわけです。

これは私に言わせると大脳が未だ未発達であるから、ということになります。

つまり本能の動きを損なわせるほどには大脳が発達していない、ということになります。

これに対して人間というのは大脳が異常に発達してしまったんですね。

人間には、自殺、というのがあります。自分の存在自体を抹殺する。他の動物にはありませんよね、おそらく。

原子力発電所、なんてのも、自分の存在自体を抹殺する、ということに通じなければ良いのですが。

いずれにしても、この大脳が異常に発達した動物の未来は、限りない可能性を秘めていると同時に、限りない危険性をもまた秘めているような気がします。

親子の確執

水曜日, 8月 17th, 2011

NHKでスタジオジブリの宮崎駿とその息子吾朗を描いた「父と子の100日戦争」というのをやっていました。

内容はあるきっかけでジブリの監督に転職した吾朗と、転職に猛反対した駿の、ジブリ新作(現在公開中の「ククリコ坂から」宮崎吾朗監督)の完成に至るまでの親子の確執を描いたものです。

まあ、以前にも宮崎駿の創作過程を描いたNHKの番組を見たことがあります。我々は勝手に好きになったり批評したりしていれば良いのですが、創る側は大変ですね。

命を削る、という言葉がそのまま当てはまる、真剣勝負の戦場ですわ。

そういう戦場に参戦してきた息子に対する見方が厳しくなるのは、肉親であるが故に余計そうなるんでしょうね。

なんとなく解りますね。

うちの事務所にも息子がいます。

別にこちらから誘ったわけではないので、自分で目的を持ってこの世界でやっていくのだろうと思って見ています。

が、宮崎駿ほどは厳しくないですよ。

命を削る、というほどの気合いではやってこなかったので、その分、自分にも他人にも甘いんでしょうね、きっと(笑)。

クーラは邪魔?

水曜日, 8月 17th, 2011

今週の日曜日は、所属する同友会の地区納涼(?)行事でバーベキューパーティーを楽しみました。

会場は私が住んでいる赤池から近い愛知牧場です。名前は知っていましたし、相当昔からある牧場ですが、今まで行ったことがなかったです。

まあ、それは良いとして、当日は朝から真夏の太陽が照りつけていて、会場は屋根はあるもののクーラーなぞは無い。そんなところで火を使う料理かよー、とやや暗い気分。

案の定、火を起こし始めた頃は暑くて、冷たいビールだけが一服の涼。

ところがです。肉や野菜を焼き始め、ビールを飲みながら調子が出てくると、暑いことは確かですが、それ程気にならないようになる。むしろ、時々吹き抜ける風の心地良さの方が勝ってくるではありませんか。

そういえば、これと同じ体験をバンコクでもしましたわ。

バンコクでは旅行者はもちろん、最近はタイ人でもクーラの利いたレストランでの食事が増えつつあるようですが、屋台ではそういうわけにいきません。

以前にもお話したように、そんなクーラの全く無い、熱風が吹きぬける屋台で、冷たいシンハービールを飲みながら熱いバーミーナーム(ラーメン)を食べる。

これは美味かったですね。最初熱風と感じた風も、なんとなく心地よい風に。

これはおそらく汗が出始めて、これの蒸発熱が快感をもたらしているのではないか、と科学的(?)な解析をしてみるのですが、なにはともあれ、仕事をする時にはクーラが無いと困りますが、飲み食いする時なぞは、むしろクーラは邪魔、なんてことがあるようです。


大学は学問の府である・・・

月曜日, 8月 8th, 2011

大学は学問の府である、なんて古風(?)なことを言うと、ちょっと失笑を買うようなご時世ですね。

大学は就職予備校と化し、学生へのサービスの充実と就職の際の面倒見の良さが売りになっています。

まっ、この少子化と不況の御時世、大学の生き残り策を考えると、しょうがないと言えば、そうでしょうが。

大学を増やしすぎた、もっと減らすべきだ、という論もあります。

しかし、まあ問題はいろいろあるにしても、大学が増えたことは私は悪いことだとは思いません。

というよりむしろ好ましいと思っています。

進歩した社会というのはどういう社会でしょうか。

その一つの回答は私は知的快楽を享受できる社会ではないかと思うのです。

つまり、学問や芸術を誰もが享受でき、精神的に豊かになれる社会ですね。

末は博士か大臣か、という立身出世の手段としての戦前の大学から、戦後の大学は国民全体の知的レベルを上げるためのものになったはずでした。

そう考えると、公益的存在としての大学には国の予算を優先的に振り分け、少なくとも授業料はどこの大学でもタダとなるようにすべきでしょう。

そして、市民が気軽に「学問」というものに触れられる場となるべきだと思います。

いかがでしょうか。

お役立ち情報更新しました:出願審査請求料が引き下げられました。

金曜日, 8月 5th, 2011

平成23年7月8日に政令の改正が閣議決定されたことにより、8月1日から出願審査請求料が引き下げになりました。

今回の改正により審査請求料が、平均的な特許出願の場合で25%下がります。

施行日(平成23年8月1日)以降にされる審査請求手続に対しての審査請求料は、以下のとおりとなります。

(特許庁HPより)

 

1.料金引下げの対象となる出願審査請求料の新旧料金(抜粋)
新料金 現行料金
通常の特許出願 118,000円+請求項数×4,000円 168,600円+請求項数×4,000円
特許庁が国際調査報告※1を作成した国際特許出願 71,000円+請求項数×2,400円 101,200円+請求項数×2,400円
特許庁以外が国際調査報告※1を作成した国際特許出願 106,000円+請求項数×3,600円 151,700円+請求項数×3,600円
特定登録調査機関※2が交付した調査報告書を提示した特許出願 94,000円+請求項数×3,200円 134,900円+請求項数×3,200円

 

※1 国際出願に基づき日本国に特許出願した場合には、国際調査報告により審査負担が軽減されるため出願審査請求料が減額されます。

※2 特定登録調査機関が交付する調査報告を提示して審査請求をしたときは、その手数料が減額されます。

その他、詳しくは特許庁HPをご覧ください⇒http://www.jpo.go.jp/cgi/link.cgi?url=/tetuzuki/ryoukin/shinsaseikyu_kaisei.htm

アメリカ提携事務所のJeffery D.Tekanic特許弁護士が来所されました。

金曜日, 8月 5th, 2011

米国J-TEK LAW PLLCのManaging Director、Jeffrey D. Tekanic特許弁護士と、当所所長守田とのインタビュー記事を掲載しました。是非こちら»でご覧ください。

国というのは、それぞれの歴史的発展段階が・・・

木曜日, 8月 4th, 2011

国というのは、それぞれの歴史的発展段階が異なっています。

つまり、どの国もそれ独自の発展段階にあるので、現状を捉えて「ここはこいう国なんだ」というレッテルを貼るのは間違いだということです。

もちろん、その国の風土気候から来る、良い意味での民族的特質というのはあるでしょうが。

例えばタイです。

温暖で食べ物に困らないから楽天的で基本的にハングリー精神に欠ける、こういう処では規律の必要な現代産業は根付かない、なぞと、まことしやかに言われたりします。

しかし現実はどうでしょうか。

問題はそれなりにあるとしても、今やタイは日本の自動車産業にとって無くてはならない所です。

そこでは当然工場労働者の、時間通りの勤勉な労働が行われているはずです。

都市のオフィスで働くホワイトカラーはどうでしょうか。

この層については、私は付き合いのある特許事務所の連中しか知りませんが、全く日本と変わらない勤務状態で、ワーカホリックじゃないかと思うほど働いている者もいますよ。

翻って、日本は本当にずっと昔から時間に厳密な勤勉な国だったのでしょうか。

江戸時代の農民や職人がそうだったとはとても思えませんね。武士もやたら非番の日が多かったようですし。

私が思うに、日本人の勤勉と規律は明治になって、殖産興業の産業革命とともに学校教育等で身に着けさせられたものだったのでは。

タイはほんの最近まで農業国だったわけで、勤勉や規律等の現代産業に必要な資質はこれから身に付ける、というところなのだと思います。

これは我々が勝手に思い描いているタイらしさ、を失っていく過程でもあるんでしょうが。

タイに見られるように、どの国もその歴史的発展段階は異なり、そして遅々としてかもしれませんが確実に発展しつつあるのでしょう。

中国然り、でしょうね。

そういえば、偉そうにしている我が国も「ものまねニッポン」「公害日本」と言われた時期があったような…